紀州雑賀にしかない本物の「雑賀孫市と雑賀衆」のグッズ・「孫市城」
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    孫市の会「雑賀孫市で街おこし事業」

     歴史に埋もれてしまっている、和歌山市のすばらしい時代を、和歌山市にそして雑賀衆本拠の街「孫市の街=和歌山市駅前」に住んでいる、商売をしている私たちこそが、わが街のすばらしい時代を世に出さないといけない。そう痛感しています。
     作家神坂次郎氏も、「紀州は徳川以前がおもしろい。」と語っています。今の低迷する時代にこそ大切な「紀州人の気概」を発揮して、夢とロマンがあふれる街を実現したい・・そう考えています。
    紀州人の気概・・・ルーツは、雑賀衆■雑賀衆本拠は和歌山市駅付近■
     雑賀荘の成立は、平安末期と考えられています。鎌倉時代になると雑賀荘の東西が紀伊湊(きのみなと)に往来する船舶の通路になっていました。当時、日本最大の荘園領主「高野山金剛峰寺」に運上米を運ぶための中継基地になるなど流通・交通の中心として、紀伊湊が和歌山市駅近くで栄えていました。
     外洋船から喫水の浅い川船に積み替える人足の集団が「雑賀衆」の起源とされ、日本有数の米の集積地としての発展を始めました。
     その集団は徐々に、海運や交易を始めるようになり、日本各地に出向き、さらに朝鮮との貿易をも始めるようになりました。まさに紀伊湊周辺(現在の和歌山市駅周辺)の繁栄は、ちょうど開国以降「神戸」や「横浜」が飛躍的発展を遂げている様を思い浮かべると、理解しやすいと思います。
     やがて地域的にも北へ拡大し狐島・梶取・福嶋・粟なども編入した雑賀荘に発展していきました。和歌川以西、土入川以南の地で和歌浦までの範囲だといわれています。
    自由闊達な経済活動、自由都市の形成
     室町・戦国時代には守護大名の領国支配が動揺し、荘園公領制が衰退するにしたがって、畿内などの先進地帯では、国人・地侍層を中心に「惣(そう)」と呼ばれる自治組織が形成されました。紀州でも領主「畠山氏」の無力化とともに顕著に発達し、雑賀五組と呼ばれる地縁的な連合組織の惣国が形成されていました。紀ノ川下流域の雑賀荘・中郷・十ヶ郷・南郷・社家郷の五つの郷からなり、現在の和歌山市のほぼ全域と海南市の一部という広大な地域に広がっていました。その中心部にあたるのが雑賀荘でした。言わば"雑賀"という自由都市へと発展し、戦国大名に支配されない「自由」な共和国の誕生です。  雑賀衆の活躍は、日本各地でその足跡をたどることができます。また、朝鮮半島の「さやか」は朝鮮に渡った雑賀衆の子孫であると言われています。 戦国の動乱期には、雑賀衆も地侍集団(鉄砲集団、雑賀水軍)として、形を変えていきます。「雑賀衆を味方にすれば合戦に必ず勝ち、敵に回すと敗れる」と評価され、当初は傭兵として各地で働いていたようです。しかし、雑賀衆は高野山や根来寺などの大寺社勢力と中央に直結した武家勢力との狭間にあって、地侍集団による地方自治を長年死守していました。その誇りと自負こそ、中央権力者に屈しない反骨精神を育んだのでしょう。
     『背に「八咫烏(やたがらす)」を染め抜いた「真赤な陣羽織」』、雑賀孫市の姿を形容する際には必ず用いられています。名を、鈴木孫市(孫一)と言い、雑賀衆では傍系の生まれであると言われています。しかし、その「類い希な鉄砲の腕前」、「独特の兵法」、「優れた知力」、「例をみない剛胆さ」から雑賀衆の象徴的な頭領として、 歴史にその名をとどめています。残念ながら、容姿風貌を示すものが残っていません。作家の創造により、多様に表現されて史実に加味されているのが、興味深く感じます。
     つまり「伝説のスーパーヒーロー、雑賀孫市」と言えるのです。
    石山合戦で発揮された孫市の底力
     元亀元年(1570)から始まった石山合戦は天正四年(1576)にいよいよ最大の激戦を迎えようとしていました。雑賀水軍は、木津川を上り兵糧を運ぶとともに、織田方の水軍を壊滅状態にさせました。雑賀鉄砲衆は、孫市の指揮のもと数千の鉄砲を構えて織田軍を待ち受け、包囲しながら総反撃に転じたので、織田軍は総崩れとなり大将の原田直政も討ち取られました。「信長記」にも数千挺の鉄砲で降雨のように撃ってきたと記されています。雑賀衆はその勢いで天王寺まで攻め寄せ、信長に負傷を負わせる活躍をしました。この時の情景と信長の心理を童門冬二氏は、著書『信長?破壊と創造』で次のように描写しています。  また槍でも活躍した者がいました。雑賀孫市の兄といわれる中嶋孫太郎(和歌山市・専光寺二代順勝)は、今宮付近で一番槍の活躍をしました。功労をたたえた本願寺側近の書状が残っています。この専光寺には孫市の血がついた槍を洗ったといわれる、「血槍洗い手水鉢」が今も残っています。
     雑賀の軍勢の働きに脅威を感じた信長は、本願寺を叩く手段として紀州攻めを行いました。6万騎とも15万騎あるいは10万人ともいわれた軍勢を率いて織田信長が紀州雑賀に攻めてきました。これに対して小雑賀口の戦いなどで雑賀衆は目覚しい活躍をしました。「信長記」によると小雑賀川(現和歌川)を渡ろうとした騎馬隊を対岸に設置した柵で上陸寸前に立ち往生させ鉄砲で狙い撃ちにしました。石山の合戦も信長軍を蹴散らし退散させ、多くの功績をあげた雑賀衆ではありますが、雑賀水軍は『鉄張船』を擁す九鬼水軍に完敗し、顕如上人は本願寺を明け渡すこととなり、石山合戦は終結しました。
     一連の雑賀衆との戦いは、織田信長の戦に対する考えにも大きな影響を与え、天下統一に向けてより加速したとも言われています。その一番に長篠の合戦があげられます。この戦いは、雑賀衆の鉄砲に苦しめられた教訓を信長が生かした結果、三段構えの連続射撃の新戦法が生まれました。
    狙撃兵が撃ち終わった鉄砲を投げ出すと、後ろにいる兵がすぐに拾って弾込めにかかる。これが一人ではない。一挺の鉄砲に二人ないし三人の弾込め役がいた。信長の目が光った。
    (中略)
    兵が射撃のために移動しなくてよいのだから、その分時間のロスがない。射撃兵と弾込め隊は、それぞれの役割だけを繰り返せばよいから、作業に習熟するのも早い。
    信長はしてやられたと思った。それだけ受けた傷が余計に痛んだ。一揆勢の中に、鮮やかに鉄砲隊を指揮する武士がいた。異様な風体で、信長には見覚えがなかった。
    「あいつは誰だ?」
    痛みをこらえながら信長は傍らに従う者に聞いた。根来衆(紀伊の根来寺の僧兵を中心とする集団)の杉の坊という僧が答えた。
    「雑賀衆の頭目、鈴木孫一です」
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